この人を見よー内村鑑三 その九 新しき教会

1881年7月9日、土曜日に農学校の卒業式が行われ、その後卒業演説会が開かれます。第二期生が入学したときは21名でした。病気その他で、卒業の時は12名に減っていました。そのうち7人がクリスチャンとなります。卒業時、上位の七席を占めていたのはこの7人でした。内村は首席、二番は宮部金吾、六番が新渡戸稲造だったとあります。特に内村の成績は抜群で空前であったばかりでなく、絶後だったといわれます。卒業後、開拓使御用掛として北海道開拓使民事局勧業課に勤め水産を担当します。月俸は30円だったようです。

北海道開拓使

 宮部金吾は札幌農学校で教鞭をとるために東京大学に行き、新渡戸稲造も農学校で教鞭をとることになります。内村は勤務の傍ら、教会堂を建て、それを独立させることに奔走します。そして、1882年に南2条西6丁目にあった古い家屋を購入して、札幌基督教会,、後の札幌独立キリスト教会を創立するのです。教会堂は安い木造建築なので、雪が吹き込んできて、ある日は婦人席は使えなかったとあります。婦人達の乗ったソリは雪の中で動きがとれなくなり、家までたどりつくのに酷く苦労をしたようです。

 全教会員が出席して総会を開いた時です。今や実社会という荒波に乗りだした内村らは、人生なるものが教室の中で想像した以上に現実で真剣なものだということに気がついていきます。すでに400ドルの借金をしている上、説教者には一銭の謝礼も払っていない中、一般経費は相当な額にのぼり、そうした難題に取り組むのです。そこにニュー・イングランドに住む「イエスを信じる者の誓約」の起草者から100ドルの小切手が送られてくるのです。この方こそ恩師ウイリアム・クラークだったのです。「神は備えたもう、兄弟達よ、うなだれた頭を上げよ、天の父は我らを見捨てたまわなかった。」この吉報は教会員の間にたちまちひろがり、一同は希望を取り戻すのです。

札幌農学校農場

 新しい教会ができると、教会規則を作ることになります。信仰個条は使徒信条(Apostle’s Creed)で、教会規則書の基になったのは「イエスを信じる者の誓約」という簡単なものでした。教会は5人からなる委員会で管理されていきます。会計は複式簿記で整理したという先駆的なものでした。ただ規則書が触れていない問題、たとえば教会員の入会、退会などは、全教会員を招集し全員の2/3の投票で決めるというものでした。この教会は一人ひとりが教会のために何らかの働きをすることを要請しました。一人として怠けることは許されなく、誰も彼もが教会の発展と繁栄とについて責任を持つのだということを確認するのです。

綜合的な教育支援の広場

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